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宗教暦
今日は宗教観とか書いて見たいと思って書くけれど、あくまで私見です。
共感してくれる人は嬉しいですが、反感をもつ人がいても議論するつもりはありません。
あなたの宗教を大事にすればよい。ただ、こんなふうに宗教をとらえる人もいるって話です。
未熟だし、限られた知識で物をいうので、間違いも多々あるでしょう。でも、あえて間違いを指摘していただいても、あまり正す気がありませんので、ごめんなさい。自分に必要な間違いは、これからの人生で、自分が見つけて直していけるものでしょうから。あくまで、私の宗教はこんな感じ。へーそう。そんなふうに読んでもらえたらと思います。





私の宗教って、結局自分教です。
3歳のときに、偶然ハガキでやってきた「イエス様ってっこんな人」的なパンフレットに偶然はまって、読んだ後答えを書いて送り返すのが楽しくてやってたら、いつの間にか、キリスト教通信講座初級終了、みたいになっちゃって。

そのときって、イエス様って隣の優しいおじちゃんみたいな感覚しかなかったんですよね。
で、自分的にごく当たり前に教会に行くようになって14歳。洗礼直前で疑問を感じてやめました。当時の私には、偶像崇拝はだめっていうのが、お墓とか仏壇とかもダメって言われてると思って(そのときに辞めたから真偽のほどはわからない。)、頑なにお祈りするのを拒否してたら、おばあちゃんを泣かせてしまった。

宗教は人を幸せにするもので、泣かせてはならない、という考えにどうしても相いれないことだったから、辞めました。
それからずっと自分を信じる、というか自分の胸の中に宿る神様を信じる自分教を信じていたんだけど。

縁があって、お寺にしばらくお世話になりました。お坊さんの生活や、お坊さんの家族の生活を一緒にしてみて、仏教もキリスト教もやっぱり基本変わらないんだって。人を幸せにするためにあるって思いました。でも、日蓮系だったから、日蓮上人って説法で相手を納得させて広めていった(と思うんだけど)、そのお坊さんはある意味「無心に」信じていました。
それが本当の信念という意味でのあるべき姿だったかもしれないけれど、議論をふっかけても議論にならない。それで自分として「どう入っていったらよいかわからないなー」と思ったので、お寺から離れました。

実は、今でも人が死んだときとか、自分が怖いときにでるのは、お経です。自分に悩みがあるときとか相談するみたいに祈るのは、イエス様が多いかな。笑えるけど、相談して解決したら、必ずお礼のお祈りをするのも小さい頃からの習慣。そうじゃないと、次の相談にのってもらえない気がして。

ま、そんなわけで、再び自分教。でも1年半ほど前、映画で達磨大師の話を見ました。で、一番よく理解したとされる弟子は、学んだことを「無」という感じで説明しておりました。
なにもない。それを聞いたとき、なんかほっとして楽になる気がしたんです。
何でもない。何もない。それでいい、と。
それで、達磨大師の教えをきちんと正確に伝えている場所で習いたいと思いました。
中国の少林寺は、この達磨大師が開いたわけではないけれど、招かれてずっと教えていた寺です。そこから禅宗が始まります。
でも、日本の禅宗って、ここから輸入して、新しく開祖があらわれて作られた日本の宗派なんですよね。違ってたらごめんなさい。微妙に達磨大師の言い方と違っている気がしています。

それで中国の少林寺行くしかないかーと思っていたとき、少林寺気功を教えている、少林寺の最高師範の先生に出会いました。私にとっては、達磨大師の教えを身体で納得する流儀が少林寺の気功です。人によって武術だったり、健康のためだったり、いろいろでしょうけれど、私は達磨大師でした。

やっていくうちに、自分のしたいこととかが、だんだん無くなって透明になってくるというか、そんな気がしています。以前は透明になる=幽霊みたいになるって思っていたのが、今は透明になる=水のようになる、つまり朗々と流れ、たゆまず、汚れず、休まない。みたいに思っています。

そうしているうちに、道教に出会いました。陰陽道とかそんなのも少林寺気功で習うので、そういう端々に老子という人の名前が出てきて、本を読んで見ようとしたら、道教でした。

よくわかってないのは、少林寺って達磨大師で、禅宗の祖なんだけど、中国の旧い考え方道教にもすごく近い気がする。ってわけで、今自分の中で咀嚼中なのが道教なんです。

でも教とついているから宗教みたいだけど、これは文字通り「教え」です。仏教は仏の教え、キリスト教はキリストの教えと、ある聖なる人や存在の教えを宗教というなら、道教もそうかもしれないけれど、むしろ道教は道徳観みたいなもののような気がします。
道という考え方があって、この考え方にどうやって至ればよいか、の教え、ですね。

人間の浅知恵で何かを行ったりしない。自然に身をゆだねる。そうすれば自ずと道は拓ける、みたいな考え方です。
これだったら、誰かを、何かを宗教として信じているってこととバッティングしないでしょう?

だから、私の宗教は、自分教だけど、道教の教えは気に入っています、って感じ。
また、しばらくして自分の考えを書いてみると、変わってくるのだろうな。
この変化もまた水のごとしで、楽しみたいと思っています。
by oeuf1 | 2004-12-11 11:27 | 老子と道と禅 taoism et zen
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