禅ということ
面白いもので、なぜかフランス語にzenという言葉があります。
穏やかな状態を指すみたいで、calmeと同じように使われるみたい。
誰かが騒ぎ出すと、zen ! zen !といって主人は穏やかにするように諌めてました。
日本語ではなぜか禅宗といったり座禅といったりするぐらいで、あまり言葉そのものは根づいていませんね。
私の先生が属する少林寺、正式には嵩山少林寺といいますが、ここで禅宗が始まったのです。始めたのは達磨。いわゆる達磨大師ですね。彼はインドから禅と仏教の教えを伝えにやってきて、嵩山少林寺で始めました。
だからざっくりいってしまえば、嵩山少林寺は禅の開祖寺ということになります。





この嵩山少林寺は、いわゆるカンフーなどで有名なあの少林寺ですから、ちょっと不思議。禅という穏やかな部分と、カンフーの荒々しい部分が1つになっているわけです。ここは私もまだうまく理解できないところ。少しずつ分かったらまた書いてみたいと思います。
開祖から五祖までは嵩山少林寺で一派しかない統一された宗派でしたが、それから2つに別れます。六祖慧能は、南に行って南宋禅を始めます。一方、五祖の弟子の一人、神秀は北宋禅を始めます。だから、嵩山少林寺は禅寺ですが、今でいう教えとしては南宋禅に近いもののようです。
六祖の弟子の臨済義玄がこれを引き継いで起こしたのが、中国臨済宗。日本の臨済宗とは流れはついでいても本来はずいぶん違うもののようです。
さて、この六祖慧能が五祖から後継者として選ばれるきっかけとなったのが六祖闘法。
禅の教えを詩にしなさいという五祖に対して詩を作り一番理解の深いとされた慧能が六祖
となったのです。
この詩がこれです。これが禅のわかりやすい一言なんじゃないかなーと私的には思っています。
『菩提、本(も)と樹無し、明鏡も亦、台に非づ本来無一物 何れの処にか塵埃を惹(ひ)かん』
「菩提はもとより樹でなく、鏡もまた鏡でない。本来、無一物であるのに、どこに塵がつくところがあろう」
悟りや煩悩の概念に囚われた世界をきっぱりと否定し、「悟り」「煩悩」ばかりか
「一物(いちもつ)も無い」と言う考え方さえ存在しない、一切の囚われを
否定しつくした世界こそ、禅である。ということだそうです。

一方、選ばれはしなかったけれど、とてもよい弟子だった神秀はこう詠んでいます。
『身はこれ菩提樹、心は明鏡台の如し、時々に勤めて払拭して、塵埃をして惹かしむること莫れ』
身は菩提(悟り)を宿す樹、心を曇りなき鏡に例えて、煩悩の塵や埃を常に払い清めるが如く修行の段階を経て悟りにいたる境地を詩偈で示した。そうです。

さて、いつになったらこの禅の境地に達することができるのでしょうかね。日々精進。
参考資料:六祖の言葉などを参考にさせていただきました。
http://www.prodr.com/i/zen/z-enou.html
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by oeuf1 | 2005-02-09 06:48 | 老子と道と禅 taoism et zen
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